【2022のほそ道ポタリング

 

1.行程

8/1(月)JAL2183

 大阪(伊丹)空港0:45 

  ⇒ いわて花巻空港 12:05 

  宿泊:ホテルルートイン花巻

 

・8/2(火)花巻 ⇒ 水沢江刺

  宿泊:ホテルニュー江刺 本館

 

8/3(水)水沢江刺 ⇒ 平泉

 宿泊:旅館 アイリス 悠

 

8/4(木)平泉

 宿泊:民泊 飛来住

 

8/5(金)平泉 ⇒ 栗原市

 宿泊:ホテルグランドプラザ浦島

 

8/6(土)栗原市 ⇒ 大崎市古川

 宿泊:ホテルルートイン古川駅前

 

8/7(日)大崎市古川⇒ 鳴子温泉

 宿泊:旅館 鳴子風雅

 

8/8(月)鳴子温泉 ⇒ 瀬見温泉

 宿泊:ゆめみの宿 観松館

 

8/9(火)瀬見温泉 ⇒ 天童温泉

 宿泊:コンフォートホテル天童

 

8/10(水)天童温泉(立石寺)

 宿泊:旅館 栄屋ホテル

 

8/11(木) JAL2236

 山形空港 13:45

 ⇒ 大阪(伊丹)空港  

 

2.ルート

3.旅の記録

8月1日

うだるような暑さの中、オミクロン

BA.5にもめげず伊丹空港は、元気

いっぱいにはしゃぐ子供たちでいっ

ぱい。 

 

いわて花巻空港では、盛岡農林高校

自転車部が、香川県で開催される

ンターハイに参加する見送りに遭遇。

見送り人たちで一杯の中の到着ロビ

ーで自転車を組立ていると、珍しい

のか見送りの人が声をかけてくる。

神戸の東灘に住む息子夫婦と孫を見

りに来ていたおじいちゃんには、

どこへ行くのと聞かれ、奥の細

辿って山形まで行くと告げると、び

くりされて激を受ける。 

 

8月2日(月)

9:15ホテルルートイン花巻出発。

ホームセンター「コメリ」で自転

のバッテリの防水のために捲くサ

ンラップを購入。

雨が激しくなってきたのでコメリの

コーヒーショップで雨宿り。かき氷

を食べて清算をICOCAでしよう

たら、ICOCAがめずらしいらく、

店の人が集まってきた。ICOCAはJ

R東日本のSUICAと同じ説明すると

納得。関西弁の「行きましょう=い

こか」がその由来と説明。因みに花

巻では「行こが」と「か」が「が」

と濁るとのこと。東北弁は言葉の最

後が濁ることが多いようだ。東北に

は仕事でよく来たが、久しぶの東

北弁の響きは優しく聞こえて心が和

む。

 

午後、宮沢賢治が晩年住んだところ

にある記念碑(雨ニモマケズ)を訪

ねた。宮沢賢治が、大正15年の花

巻農学校教諭を依願退職後、晩年

耕雨読で暮らした場所に、宮沢賢治

の有名な詩「雨ニモマケズ」の詩碑

(詩人の高村光太郎が書いた)が建

っている。詩碑の下には、宮沢賢治

の遺骨と経文が納められ、賢治の死

後に発見された「雨ニモマケズ」の

創作ノートの写真も展示されている。

「・・・ホメラレモセズ

 クニモサレズ

 サウイフモノニ

 ワタシハナリタイ」

 

私もナリタイ、成れるかな???

新奥の細道:

宮沢賢治の晩年の家:

「雨ニモマケズ」詩碑

「雨ニモマケズ」詩文

「雨ニモマケズ」手帳

8月3日(水)

東北地方に線状降水帯が停滞してい

る影響で朝から大雨、昼から雨も上

がるとの予報なので、水沢のスタバ

で雨宿り。午後に雨が上がったので

平泉に向けて出発。2時間ほどで中

尊寺に到着。参道を800m行くと

有名な金色堂(国宝)がある。奥羽

藤原三代の遺体が納められている。

芭蕉も奥の細道の途中参拝し、有名

な俳句を残している。

 

 五月雨(さみだれ)(ふり)のこしてや光堂(ひかりどう)

 

芭蕉が中尊寺を訪れたのは旧暦5月

13日(6月29日)で、梅雨の晴

れ間だったかもしれない。奥州藤原

氏は平安時代の終わりに東北地方で

大きな権勢を誇ったが、源義経をか

くまった事で源頼朝に滅ぼされる。

芭蕉が訪れる約500年前のことで、

芭蕉が訪れた当時は中尊寺もすたれ

廃墟となり、金色に輝く金色堂だけ

がかろうじて残っていたようである。

 

 

参道を歩いていると、外人と目が合

ったので「Where did you come

from?」と尋ねたら、「アメリカで

す」と笑顔の日本語で返された。日

本で仕事をしていて、休みを取って

両親をアメリカから呼び寄せ旅行中

とのこと。

芭蕉句碑:

芭蕉像:

中尊寺金色堂(覆堂の中のガラスケースに金色堂が納められている)

金色堂

 

8月4日(木)

朝から宿から歩いて行ける(もう)越寺(つうじ)

を訪れた。毛越寺には芭蕉の有名

句碑がある。

 

 夏草(なつくさ)(つわもの)どもが(ゆめ)(あと)

 

 これは、源義経の最期の高館で詠ん

だが、句碑は文化3年(1806年)

に毛越寺に建てられた。

 

源義経の最期の場所の高館から北上

川の雄大な流れを見たあと、昼食に

道の駅に向かう途中、遺跡(柳之御

所遺跡)発掘現場に遭遇。見ている

と、県の発掘責任者らしき人が寄っ

てきたので質問する。

 

Q1: 世界遺産の発掘ですか?

A1:この遺跡はまだ世界遺産に認定

 されていない。

 

Q2: なぜ?、ユネスコが蹴っている?

A2:そうです、ユネスコは中尊寺な

ど宗教遺跡として平泉の5資産

(中尊寺、毛越寺、観自在王院跡

無量光院跡、金鶏山)を世界遺産

として認定しているが、柳之御所

遺跡は奥州藤原氏の政庁跡で、宗

教と関係ないので認めてくれない。

でも、奥州藤原氏は3代にわたり

仏教に熱心に帰依し平泉を作った

ので、それをアピールしている。

国も後押ししてくれているので、

4、5年後には指定されるよう

頑張っている

 

Q3:頑張ってください。

A3:ありがとうございます。

  

発掘している女性にボランティアか

と聞くと、アルバイトですとの答え。

4、5年後には世界遺産に指定され

るそうですねと質問してみると、無

理でしょうとそっけない返答。職業

意識の差? 若い人もいたので、よ

く見ると、昨日泊まった宿にいた考

学専攻の学生達。先生に連れられ

実習とのこと。

 

 

毛越寺芭蕉句碑(夏草や・・)

毛越寺芭蕉句碑(夏草や・・)

毛越寺芭蕉句碑英語(夏草や・・)

毛越寺芭蕉句碑英語説明(夏草や・・)

高館から衣川を望む

 

 

 

 

85日(金)

   朝食後出発まで泊まった民宿のご夫

と歓談。民宿は1/日。定年後始め

た。お客さんの少ない2月は民宿を閉め

旅行するとのこと。

 毎年、仲間で海外旅行しており、来

台湾に行き、最南端の墾丁の民宿

まることを伝える。墾丁の民宿

も旅行が好きで、客さんの少な

に夫婦で旅行する話を伝えると、

ひその民宿へ行きたいとのことなの

で、その民宿を紹介する約束をする。

 民宿の名前の「飛来住(ひいじゅ

う)」の由来を聞く。先代か引き継

いだ家の欄間の、鶴が飛る透かし

彫りが由来とのこと、よると鶴が

飛んでいる姿が古色蒼然て凛とし

ている。

 国道4号は全線に歩道が設置され自

車も安全に走れるが、うなりをあげ

猛スピード走るトラックがうるさい

で、自転車ナビで裏道を選んで行く

と、道端で草刈りをしている人に呼び

止められた。この先は道はあるが今は

倒木があり歩いてはいけるが、車や自

では無理とのこと。どこから来て

に行くのと問われ、神戸からで、

から鳴子温泉を通って山形天童の

寺まで行くと伝えると驚かれた。

人も旅が好きで、世界中を旅して

とのことで、意気投合してお互い

の話で盛り上がった。

 芭蕉の「奥の細道」でも、道に迷っ

時に、草刈りの農夫から助けられる

がある。那須野で馬を借りて迷い道

ら逃れる部分である。

 

 そこに野飼の馬あり。草刈おのこに

 なげきよれば、野夫といへども、さ

 すがに情しらぬには非ず。「いかヾ

 すべきや。されども此野は縦横にわ

 かれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみ

 がえん、あやしう侍れば、此馬のと

 ヾまる所にて馬を返し給へ」とかし

 侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡し

 たひてはしる。独は小姫にて、名を

 「かさね」と云。聞なれぬ名のや

 しかりければ、

 

 かさねとは八重撫子の名成べし 

              曾良

 

頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに

結付て馬を返しぬ。

 

(現代語訳)

草刈の農夫に事情を話すと、田舎者

だが情け知らずではない。「どうす

っぺぇか? この野原は道があっち

こっちに分かれてて、他所者には迷

うだんべ。わしも心配だから、この

馬に乗ってって、この馬が止まると

こでこれを返してくんなんしょ」と

言って馬を貸してくれた。

 

 子供たちが二人、馬の後を追ってき

 た。一人は少女で、その名を「かさ

 ね」という。聞きなれないものの、

 かわいい名前なので、

 

 かさねとはとてもかわいらしい名

 前だが、花ならさしずめ八重ナデ

 シコの名前といったところだろう 

 

              曾良

 

 まもなく人里に着いたので、謝礼を

 鞍壺に結わえて馬を返した。

 

(注記)慣れた馬は、来た道を覚えて

 いて飼い主のところへ帰る習性があ

 るそうです。現代では馬が一頭で歩

 いていたら大騒ぎですが!

 

 

8月6日(土)

栗原泊。たかもりの湯入湯。

 

8月7日(日)

尿前(しとまえ)の関を訪れる。芭蕉は通

手形を持っていなかったため怪しまれた

が何とか通過できた。


*尿前(しとまえ)の名前の由来

 源義経が平泉に逃れるとき、生またば

 かりの義経の子の亀若丸が初めておしっ

 こをしたとの伝説がある。

 

鳴子温泉に泊まる。鳴子温泉は「鳴子九

湯」と言われ、日本で一番泉質の種類が

多い。それは鳴子温泉が活火山の鳴子カ

ルデラにあるためとのこと。

鳴子カルデラ

8月8日(月)

鳴子温泉の日本こけし館を訪れた。

鳴子こけしは首が回りキュキュと音

がする。その後に、湯温が93℃の

シントロの湯につかり、「封人(ほ

うじん)の家」を訪れる。封人の家

は国境を守る役人の家。元禄二年

1689年)5月15日(新暦7月1日)に

激しい風雨を避けるために3日ほど滞

在する。

 

芭蕉はここで面白い句を詠んでいる。

 

(のみ)(しらみ)馬の尿(ばり)する枕もと

 

「現代語訳」

 ノミやシラミに責められ、枕元には馬の

 小便する音が響く、すさまじい一夜だ。


だが実際は、宿泊した封人の家は、代々の

庄屋で村役人の屋敷で、芭蕉一行は丁重に

われたようで、蚤虱の表現は、山越えの

厳しさが詠れたと思われる。

 

【こけし風土記】

「封人の家」の管理人の中鉢藤一郎さ

んは、最上町の臨時職員。話し好きで

いろいろ話が聞けた。

中鉢藤一郎さん

Q1:芭蕉はなぜ当時から名湯であった

   鳴子温泉をバイパスしたのか。

 A1:芭蕉は。出羽の国(山形県)の尾

   花沢の弟子の鈴木清風に会うた

   に先を急いでいた。清風は紅花

   (染料や食用油の原料になる)扱う

   豪商。清風は、半夏一つ咲きを芭蕉

   に見せたかった。芭蕉も見たかっ

   ので急いだ。

   

   * 半夏一つ咲き

    夏の初めに、広い緑の紅花畑に

   一輪だけポツン咲き、それを合図の

   ようにして次々と紅花が咲きだす様

 

Q2:芭蕉が泊まったのは、いりの座敷

   との事だが、馬屋とは15mほど離

   れているが、本当に馬が小便する

   音を聞けたのか。

A2:馬の尿(ばり)の音は大きい、

      特に、飼われている小国馬は、  

            新藩に仔馬を献上するため、

      雌馬が多く飼われ、雌馬は牡

      馬に比べて排尿時の音が大きい。

   東京の大学生が研究のため、先生

   と一緒に来て音量を測定したこと

   があったが、確かに奥の座敷で聞

   こえた。

 

Q3:尿前の関は、尿を(しと)読

      ませるが、芭蕉がここで詠んだ

      句は、なぜ尿(ばり)と読ませ

      るのか。

A3:阪神淡路大震災のときに、

   の民家で、奥の細道の芭蕉が書

   いた原本(野坡本:やばぼん)

   がつかり、そこに尿(ばり)

   とふり仮名を振ってあり、それ

   まで尿(しと)読んでいたのを

   尿(バリ)と読むように変わった。

 

Q4:コロナの影響は。

A4:今年は4月から今迄4,000人程度来

   場した。去年は約800人/年ぐらい

   の来場者しか無かった。(4月か

   11月は休館:冬はこの地方は2m

   豪雪のため 休館)。コロナ前は、外

   人のウオーキンツアーもあった。

封人の家平面図

8月9日(火)

 

昨日泊まった瀬見温泉から天童に向かう。

途中、尾花沢の芭蕉清風記歴史資料館を

見学。

芭蕉・清風歴史資料館

芭蕉・清風歴史資料館

展示物

8月10日(水)

立石寺を訪ねた。芭蕉はここであの有

名な俳句を詠む。

 

 (しずか)さや岩にしみいる蝉の声

 

この俳句は普通に考えるとつじつまが

合わない。芭蕉が立石寺を訪ねたのは

元禄2527(1689年7月13)

で、蝉はミンミンとうるさく鳴いてい

たはずで、静かなはずがない。では

ぜ芭蕉は閑かさや“と詠んだのか。

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ここで少し珈琲ブレイク・・・

 

私のような凡人が詠むと、

 

新緑の岩にしみいる蝉の声

 

になり、昨年の山形県知事賞をもらっ

た小学5年生の俳句、

 

 電話からせみといっしょに祖母の声

 

と同じで、うっそうとした新緑の中で

蝉が鳴いている現実の世界をそのまま

言いたくなる。

 

川柳風では、

 

嫁の愚痴岩にしみいる蝉の声

 

と、嫁さんのうるさい愚痴を聞き流す

様を言い、

 

電車の中の注意広告では、ちょっと

皮肉って

 

 閑かさや耳にしみ入る音の漏れ

 

となる。

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閑話休題、さて、なぜなぜ芭蕉は

”閑かさや“と詠んだのか。

昨日、「封人の家」の中鉢さんが、

芭蕉の俳句の話になった時に、芭

蕉のこの句の解説をしてくれた。

 

「ふもとで蝉は鳴いているが、10

00段の石段の上のあるお堂の周り

は静まりかえっている。その中で、

時々ふもとから蝉の鳴き声が聞こ

えて来る、静寂とのコントラスト

を芭蕉は詠みたかった。」

 

又、俳人の長谷川 櫂は、こう解説

ている。

 

「その日の午後、芭蕉は立石寺の

岩山に立つと、眼下に広がる梅雨

明け間近な緑の大地を眺めた。頭

上には梅雨の名残りの雲の浮かぶ

空がはるか彼方までつづいている。

そのとき、あたりで鳴きしきる蟬

の声を聞いて、芭蕉の心の中にし

んと静かな世界が広がった」

 

 

人により解釈が違う。いろいろな人

が、それぞれの思いで想像し、解釈

ができる。そんなことが名句の条

なのかもしれない。